鈴虫寺

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鈴虫寺のいわれ

〈華厳寺(鈴虫寺)の縁起〉

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宝永六年(一七〇九)鳳潭上人は当時無住であった松尾上山田村の安照寺に入寺し、正徳五年(一七一五)安照寺は寺号を華厳寺に改められ華厳寺が成立しました。享保八年(一七二三)松尾上山田村にあった華厳寺は、現在の場所である松室の地に移築され、それ以降、現在に至るまでの約三〇〇年間、現在の地で法灯を伝えていくことになります。

現在、華厳寺が建っている場所は、『太平記』に登場する天台宗延朗上人が創建した最福寺の故地です。最福寺は七堂伽藍に大楼閣を有する大寺院でありましたが戦国時代末期に焼失しました。その故地に現在の華厳寺は建てられています。

〈当山開山 鳳潭上人〉

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開山したのは、学僧「華厳の鳳潭(けごんのほうたん)」。

寺を開山した鳳潭上人は、稀代の学僧として語り継がれています。《名は僧濬、華嶺道人、幻虎道人と号し、筆号は浪華子》

万治2年(1659)、摂津難波の村に生を受けた鳳潭上人は、16歳になると黄檗二傑の一人として名高い慧極道明禅師のもとで得度され、その後、黄檗一切経を上梓したことで知られる鐵眼道光禅師の弟子となりました。その際、法名を僧濬、別号を菊潭と名づけられました。
宝永六年(1709年)菊潭和尚は、京都の西山山麓に臨済宗の安照寺を建立され、自ら号を「鳳潭」に改められました。

鳳潭上人は初め比叡山で天台の教観を修め、さらに京阪地方において大小顕密各宗を学び、その後奈良で華厳学を究めたといわれています。
上人が「渠が華厳を以て一代の業となす」という境地に至ったのは延宝8年(1680)、21歳の時。鉄眼禅師が東武に講教する際、これに随行した上人は鉄眼禅師から「天下の十宗その一を欠く、賢首宗教振るわざること久し、われ恒にこれを悼む、濬や教を好む、汝それよろしく華厳教宗を興すを以て任とせよ」と伝えられ、禅師自筆の経題を賜ったのがきっかけとなりました。

そして上人は、たいへん難解なため半ばすたれかけていた華厳宗を分かりやすく説くことで再び盛り上げたのです。この布教により、上人は「華厳の鳳潭」と呼ばれるようになりました。
また、鳳潭上人は日本で初めて仏教を中心とした世界地図を作った人とも伝えられています。当時、ヨーロッパから渡来した西洋中心の地図を見た上人は、インド(仏教圏)を中心にした地図を自ら作成。木版で刷られた大きさ約二畳の地図は、現代の地理学においても貴重な資料とされています。寺内では、鳳潭上人の座像やお墓をご覧になれます。

〈鳳潭上人の著書を一部ご紹介〉

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  • 『五教章傍註』三巻
  • 『探玄記玄譚』一巻
  • 『探玄記別検』一巻
  • 『華厳入法界品字輪頓証毘盧舍那法身観』一巻
  • 『圓覺經集註日本訣』三巻
  • 『圓門境觀還源策』一巻
  • 『楞嚴千百年眼髓』三巻
  • 『楞伽經會玄記』一巻
  • 『起信論註疏略訣』一巻
  • 『觀音纂玄紀』一巻
  • 『起信論註疏非詳略訣』一巻
  • 『戒體續芳訣』一巻
  • 『阿毘達磨倶舎論略釈記新鈔』一巻
  • 『倶舍論頌疏講苑』十四巻(倶舎論頌釈/倶舍論頌釋疏/冠註講苑倶舎論頌略疏/阿毘達磨倶舎論畧釈/阿毘達磨倶舎論略釈記) [(唐)円暉述;鳳潭撰]
  • 『因明入正理論疏瑞源記』八卷 [(唐)窺基撰;;鳳潭記]
  • 因明瑞源記
  • 因明瑞源記
  • 倶舍論頌疏講苑
  • 倶舍論頌疏講苑

〈通称 鈴虫寺〉

一年中心和む音色が響く、鈴虫のお寺。

秋だけでなく、四季を通じて鈴虫の音色を聞くことのできる境内。それゆえ「鈴虫寺」の名で親しまれている当寺ですが、正式な名称は「妙徳山 華厳寺(みょうとくざん けごんじ)」といいます。

今から八十年ほど前、台厳和尚が夜に坐禅を組んでおられました。その時に短い寿命しかない鈴虫が懸命に鳴いている姿をご覧になり悟りを開かれました。その時にどのようなことを悟られたのかはご本人にしか分からないことですが、禅宗の言葉の中に「花無心にして蝶を招く。蝶無心にして花を訪ねる」と言う句があります。これは蝶にしても花にしてもなんの思惑もない。ということを表現しています。

花にしてみれば温度や湿度が一定の基準になったから花を咲かせているだけであり、受粉を手伝ってほしいという思いがあるわけではありません。蝶も自分の餌となる蜜があるから花に近づいているだけであり、受粉を手伝ってやろうという思いなどありません。まさに自然の摂理に従って全てのものが動いているのです。なんの思惑もなく、自然の摂理に従って生きて行くことの大切さに気付かれたのだと思います。

ではなぜ、自然の摂理を無視してまで鈴虫を一年中鳴かせようとしたのか。そこには台巌和尚のある思いがあったのです。当時、日本は戦争に負けたところでした。戦後復興と言っても、食料も物資も何もない。しかも人々の心が荒み切っている。このような状態で戦後復興などできるはずもない。せめて心だけでも少し穏やかになって、前を向いて皆さんに歩んでいただきたい。その為には、自分が悟りのきっかけとなった鈴虫の音を聞いて心を穏やかにしていただければと言う思いから鈴虫を一年中鳴かせる研究を始められました。その後28年かかってようやく一年中皆様に鈴虫の音を聞いていただけるようになりました。